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福岡高等裁判所 昭和55年(う)145号 判決

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人山田一喜、同井上允各提出の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官橋本昮提出の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

要するに、所論はいずれも、本件については、被告人及び共犯者(以下特に区別しない限り被告人らという。)と本件火災とを直結するに足りる物的証拠あるいは目撃者その他の客観的証拠はなく、ただ被告人らの捜査段階における自供調書が存在するだけであるところ、右自供調書はいずれも警察官の脅迫的言動によって作られたもので任意性がなく、またその自供内容は何回も変遷し前後矛盾しているばかりでなく、被告人ら相互間でも重要部分において供述が喰い違い、到底措信できないものである。しかるに、原判決がこれら任意性と信用性に欠ける被告人らの各自供調書によって原判示各事実を認定したのは判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認であり、原判決は破棄を免れないというのである。

よって按ずるに、本件については被告人らの自供調書を除いて他にこれを認めるに足る客観的、物的証拠がなく、ことに被告人の供述調書は否認、自供とその内容が変転しているばかりでなく被告人ら相互の間でも喰い違う部分のあることは所論指摘のとおりである。しかしながら、原審で取調べられた被告人らの警察官に対する各供述調書は被告人らの身上、経歴、交遊に関する一部の同意書面を除けば、被告人らの原審公判期日における本件各犯行を否認する旨の供述の証明力を争うため刑訴法三二八条書面として提出されたものであって、もとよりこれを有罪認定の証拠とすることはできないものである。そして、原判決掲記の被告人らの検察官に対する各供述調書によると、原判示各事実は一応肯認し得るものである。そこで弁護人らは、被告人らの警察官並びに検察官に対する各供述調書間の喰い違いや諸々の矛盾点を指摘し、さらに当審で取調べられた被告人らの捜査段階におけるその余の各供述調書により、右の瑕疵は一層明らかになったとして、被告人らの捜査段階における各供述調書、ひいては原審が有罪認定の証拠とした前顕検察官に対する各供述調書の任意性と信用性を争うのである。右のような本件の特殊性に鑑み、当裁判所は審理に際し、検察官手持ちの被告人らの捜査段階における供述調書一切の提出を求め、検察官もまた事案の真相解明のため否認調書に至るまでこれを提出し、更に当裁判所は被告人ら及び取調官らの尋問を行ない、被告人らの捜査段階における各供述調書に如何なる矛盾がいかなる点に存在し、齟齬が生じているかを検討し、それらの瑕疵が被告人らの自供調書の信用性にどのように影響し作用したか、又その生ずるに至った理由等を、本件捜査の経過をたどり、全供述調書を精査し、その他の証拠とも対比しながら、自白の信用性を慎重に吟味することにした。

第一  本件捜査の経過

一  本件火災の捜査をしていた八代警察署は、Bが右火災に関係しており、Cがこれを知っているらしいとの情報を得て、昭和五二年五月二四日(以下「年」の記載のないものは昭和五二年を指す。)当時八代第一高等学校(以下第一高校又は八商という。)を退学していたCを自転車窃盗の容疑で逮捕し、少年鑑別所に収容して右事実で取調中本件の参考人として事情を聴取したところ、同人は自己が関与したことは否定したが、その否定の仕方がおかしかったので、なお問いただしているうち、放火の実行行為はしていないが、その話し合いには加わった旨自供し、確かめるとすぐ否認する状態を繰返していたが、六月三日に至って、第一高校の二回目の火災はCとD、Bの三人で相談のうえD、Bの二人が放火した旨自供した。取調官としてはそれまでのCの供述態度から真偽何れとも判断しかね、思うままを自ら記述するよう指示した結果、Cは同日自ら上申書を作成して提出した。右上申書には「第一高校に行くのが嫌になり一月五、六日頃BとDに学校を燃やそうと相談したところ、右両名がこれに賛成し、日は決めなかったが、同月中に実行することになった。ところが同月一二日学校に行ったら教室が燃えていたので、Dたちが火をつけたのではないかと思い、帰途当時Bが入院中の岡川病院に立寄り聞いたところ、同人はやっていないと云った。しかしその日右両名と相談して、火事のあった後だから近いうち燃やせば俺達ということがばれないかも知れない。一四日頃燃やそうということになった。一三日夜一一時頃Bの勤め先であるクラブ千賀に電話してBと連絡し、千賀の終る頃Dと一しょに千賀に行った。第一高校を燃やすのかと聞くと、右両名がお前は行かんでよか、もううてあわんと云って二時間後位に両名だけで出て行った。自分は同店でビールを飲んで寝ていたら一四日午前五時頃両名が帰って来て学校に火をつけたと云った、その際Dから火事のことは誰にも云うなと云われ暴力団田添組の組員である同人がこわかったので今まで隠していた」旨記載されていた。Cはその後右同旨の詳細な供述をなし、六月一三日右窃盗の非行につき試験観察に付されて釈放されたが、その後の警察の事情聴取に対しても右同旨の供述を続け、ただ自分は現場に行っておらず、また右両名と放火の方法を話し合っていないので放火の具体的状況は知らない、と述べた。

二  そこで警察は、B及びD両名の所在捜査をしたところ、Dが同郷の後輩であるBが寄寓していたEのアパートに出入りし、世話になったのはいずれも三月に入ってからで、Cとの交際はその頃からであり、しかも本件各火災当夜はいずれも八代市内の旅館に宿泊(一月一四日は女性同伴)していてそのアリバイがあったこと、Bは三月一五日頃当時千賀で一緒に働いていたCと共にDに誘われて都城に移転したが、間もなく警察が探している旨の情報を得て同人らと別れ関西方面に逃走したことが判明した。警察は六月一二日暴行、窃盗、詐欺等の容疑でBを西宮市で逮捕し、翌一三日八代警察署に連行して右容疑で取調べを行ない、翌一四日午前中本件放火の容疑でポリグラフ検査を実施し、同日午後右容疑で取調べを始めると、右検査結果がはっきりしないうちに、早くも第一回目はAと二人で、第二回目はA、Cと三人で第一高校に火をつけたと簡単ながら自供し、更に同月一六日第一回目の犯行について詳細な供述をし、翌一七日第二回目の犯行について供述自体は簡単であるが、放火の場所、油を入れた缶の形状等四葉の図面を作成した。同月二〇日頃否認(その調書は作成されていない。)したが、同月二四日第二回目の犯行について詳細な供述をして自供を続けていたところ、熊本家庭裁判所八代支部の八月一五日の最後の審判の際犯行を否認し、検察官送致決定後は捜査官の取調べに対し一切黙否するに至った。

三  一方被告人は五月二九日別件の窃盗の容疑で逮捕され、六月一日には釈放されたが、その時点では本件放火の被疑者としての容疑はなかった。ところが同月一四日Bの前記自供により被告人の容疑が初めて浮び、八代警察署が翌一五日午前被告人の出頭を求め取調べたところ、夕方に至り簡単ながら一月一一日の放火はBと第一高校に行って自分が廊下にあった屑箱をひっくり返し塵屑に火をつけたと認めたが、時間の関係で同月一四日の火災についてふれないまま帰宅させたところ、翌日は右自供を覆して犯行を否認し、以後その態度を変えなかった。七月七日に至り本件犯行すなわち、第一回目はBと二人で、第二回目はB、Cと三人で第一高校に放火したとそれぞれ詳細な自供をした。そこで八代署は同月八日被告人ら三名を本件犯行の被疑者として逮捕し、同月一〇日八代拘置支所(但し同月二九日から検察官送致までは熊本少年鑑別所)に勾留して取調べた。被告人は逮捕当日の七月八日さらに詳細な供述をし、勾留尋問(七月一〇日)と弁護人面接(同月一五日)の直後それぞれ犯行を否定したが、両日ともその直後の取調べでは再び犯行を自供した。ところが同月一八日検察官の取調べの際否認し、その翌日からまた自供に変り、さらに同月二九日の家庭裁判所の審判の際から犯行を否認するに至った。

四  次にCは、七月八日本件で逮捕されるや今まで嘘を云っていたが、第一回目の放火には関与していない、第二回目の火災はB及びAと自分三人で放火したものであると自供し、当日の行動や犯行態様等について一応供述をしたものの翌九日にはこれを否認した。しかし同月一五日に至って再びこれを認め、その後はその自供を維持していたが、同月二九日の家庭裁判所の審判の際から、火災当日は自宅に居たと云って犯行を否認した。

五  捜査当局は、八月二四日家庭裁判所の検察官送致決定を受けて、それまでの被告人らの供述相互間の諸矛盾点を追及し調整しようとしたが、Bが前述のように黙否し、被告人とCが自分は本件各犯行には関与していないと完全否認に変ったため捜査が進まず、不完全な捜査結果のまま被告人らにつき九月二日本件公訴を提起し、被告人らは一〇月八日に開かれた第一回公判以来原審においてその否認の態度を崩さず、被告人は現在に至るまで、その否認を続けている。

第二  本件公訴事実

本件公訴事実は

一  被告人B、同Aは、共謀のうえ、熊本県八代市興国町一番五号所在学校法人八商学園(理事長松本国助)八代第一高等学校校舎に放火してこれを焼燬しようと企て、昭和五二年一月一一日午後八時頃、被告人Bが同校木造瓦葺二階建第二校舎一階普通科二年三組教室において、教科書等にマッチで点火してごみ箱に入れ、更にこれを掃除道具入れに入れて放火し、被告人Aが同校舎二階普通科二年一組教室において、床上に教科書等を置きこれにライターで点火して放火し、これらの火を同校舎板壁、床などに燃え移らせ、よって現に人の現在しない同校舎一棟(延八六五・一三平方メートル)を焼失させて焼燬し、

二  被告人B、同A、同Cは、共謀のうえ前記八代第一高等学校校舎に放火してこれを焼燬しようと企て、前同月一四日午前五時頃、被告人Bが同校木造瓦葺二階建第一校舎一階書道室において、漫画の本などにマッチで点火して書類棚に入れて放火し、この上に被告人Cが所持していたオイルをかけ、被告人Aが同校舎二階女子経済科二年二組教室において、床上に教科書等を置きこれにライターで点火して放火し、被告人Cがこの上にオイルをかけるなどし、これらの火を同校舎板壁、床などに燃え移らせ、よって現に人の現在しない同校舎一棟中延八四三・二平方メートルを焼失させて焼燬した。

というものである。

第三  原判決の認定と構成

原審は審理の結果、まず冒頭において、Bは昭和五一年一二月中旬知り合い、やがて深い仲になっていた第一高校普通科二年の生徒F子との関係が、その年の暮に他の女性の介在によって不仲となり、絶交を言渡されたもののF子に対する執心が捨てられず、同女に翻意を求め、自殺をほのめかし、一月四日夜少なからざる量の睡眠薬を服用して岡川病院に入院したが、同女の態度が変らず心焦るまま一月一一日午後帰宅する同女を送って行くうち、同女が学校に行くのを嫌っていることを知り、その意を迎え愛情を再び呼び戻す方策として同女に、学校を燃やしてやろうかと思いつきを口にした旨一回目の火災について動機を判示し、罪となるべき事実第一として

Bは前示のF子を送って帰る途中の一月一一日午後六時頃中学の先輩である被告人とたまたま出会い被告人が運転する乗用自動車に乗せて貰って八代市内を走り回っているうちに日頃の憂さの晴れなさを話題にのぼせた際「八商に火を付けに行こう」と誘いかけ、これを数回くりかえすうち被告人も面白さ気分が手伝って同調し、と共謀について認定し、罪となるべき事実第二として、

Bは同月一三日岡川病院へ訪ねてきたF子に対し、一一日放火したのは自分だと話したが、同女が冗談として信用しなかったため、再度放火することを決意し、このことを遊びにきていた中学同窓のCに打明けてその同調を取付け、それから仕事中の被告人Aを電話で「火事あとを見に行こう」と誘っておいたうえ、同夜遅くなって現れた被告人に対し、その普通乗用自動車に乗り合わせて、走り回って遊んでいるうち「もう一ぺん、つけに行こう」と誘って同意を得、と二回目火災についてBの動機と被告人らの共謀を認定したうえ、ほぼ公訴事実一、二に副う事実を認定し、被告人を懲役四年(未決勾留日数八六二日算入)の刑に処した。なお、Bを懲役五年(未決勾留日数八六二日算入)、Cを懲役二年六月(未決勾留日数八六三日算入)に処した。しかして、原判決が被告人らを本件犯行の犯人と断定して誤りないとした理由は、被告人らが捜査段階において捜査官にした詳細且つ具体的な自白が基本的部分において終始一貫し、相互に一致し、ポリグラフ検査結果を含む諸種の情況証拠とよく符合し、肝要な点において十分信頼することができる、という点にある。

そして、原判決が事実認定のために採証したものは、被告人らの検察官に対する各供述調書以外には、

(一)  Bとの交遊、言動を供述したF子の証言、

(二)  Bが睡眠薬を服用して岡川病院に入退院した旨の医師深松貞博の回答書及び入院日時についての検察事務官の電話録取書

(三)  松木国助の第一高校の組織、運営、校舎等に関する供述調書

(四)  各火災直後の実況見分調書(二通)

(五)  第一高校の校舎、生徒数、放火管理等学校の現況に関する松岡重康の供述調書

(六)  二回目火災の焼跡から丸型缶二〇個位を発掘したが、美術の教材用であるとのことで廃棄した旨の吉田康義の証言

である。

以上によって明らかなとおり、本件において被告人らを本件犯行に結びつける直接証拠としては、被告人らの捜査段階における自白だけであり、被告人が本件に加担し、真犯人の一人であると断定することができるか否かは、一にかかって被告人らの右自白の任意性と信用性のいかんにかかることになる。

第四  証拠上認められる事実

原判決が是認する本件犯行についての認定事実に関連し、証拠により、ほぼ確実と認められる外形的及び主要な事実は次のとおりである。

一  一月一一日午後八時頃八代市興国町一番五号所在学校法人八商学園(当時理事長松木国助)所有の第一高校第二校舎木造モルタル瓦葺二階建(延一〇〇二・八五平方メートル一、二階各四教室、非現住)が放火と推測される火災によってほぼ全焼したこと、そのうち同校舎東側の階下普通科一年三組、同二年三組及びその階上に当る二階普通科二年一組、同二年二組の四教室の焼燬の程度が最も激しく、窓枠、屋根、天井、床面、教室境の壁に至るまで、階上、階下の区別なく焼失していること(以下一回目火災という)

二  同月一四日午前五時すぎ頃、右第二校舎の南側に隣する第一校舎木造モルタル瓦葺二階建(延八六八・六〇平方メートル一、二階各四教室、非現住)が放火と推測される火災によってほぼ全焼したこと、そのうち同校舎東側階下美術準備室と書道室、美術室東側半分及びその階上に当る二階女子経済科二年二組、同二年一組教室の焼燬の程度が最も激しく、窓枠、天井、床、壁、屋根に至るまで階上、階下の区別なく焼失していること(以下二回目火災という)

三  一回目火災の最も焼燬の激しかった右四教室は当日午後八時一〇分頃には階上、階下の区別なく炎に包まれていたこと

四  二回目火災の当日午前五時二〇分頃には、階下の様子は不明であるが、二階の窓や軒先から炎がふき出しており、みるみるうちに燃え広がって屋根から炎が吹き上ったこと

五  二回目火災の当日当時九州警備保障株式会社勤務の警備員竹島行徳は、(一)午前三時三〇分を僅かすぎた頃第一高校の三回目の巡回を終り正門に来て校外に出るため門を開けたとき幅員七メートルの道路を隔てた左斜め前方道路端で、正門東端に接して路上に白線で表示された横断歩道上に北(田中町方向)に向けてライトを消しエンジンをかけた一台の白色ライトバンが停車しているのを目撃したが、その時右車両は田中町方向に急発進して走り去ったこと、(二)竹島に遅れて正門に来た同行の警備員富田一男は右車両を目撃していないが、急いで走り去る自動車タイヤの砂礫音を聞いていること、(三)同人らの服装は制服制帽であったこと、(四)竹島は右車両がサニーライトバンであり、車両ナンバーは記号が熊、数字下四桁が一七三六と見えたこと、(五)当時右車両を照らす照明は、第一高校南側の興国人絹株式会社(以下興人という)敷地内第一高校正門近くに建てられた電柱に取付けられた三〇〇ワットの螢光水銀灯一基であり、車両から右正門に向けては〇・四ルックスの照度があるが正門から車両に向っては〇ルックスで、正門からは車両の右側面が見えるだけであるが、車種、型式を見分けるだけの明るさはあったこと、(六)右ナンバーの車両について捜査した結果数台の該当車両は存在したものの右当日第一高校正門前に駐車し得る可能性のある車両は一台もなかったこと、(七)竹島の視力は左眼が一・〇であるが右眼は〇・一であり、一〇月四日午後六時五〇分から同八時三〇分まで行なわれた右目撃状況の実況見分の際、同人は使用されたサニーライトバンのナンバーを正確に識別し得なかったこと、(八)右両名は一月一四日午前四時半頃帰りがけに再び第一高校に立ち寄り、同校の塀に沿って裏側道路に廻り、塀の一部崩れた場所に駐車し、富田が車外に出て主として不審車両の有無、第一高校の木造校舎の火の気に注意して午前五時前頃まで待機したが、何ら異常を認めず、右場所から東の方に進行して大手町の事務所に帰ったが、その時事務所の時計は午前五時一〇分頃を指していたこと

六  警察は二回目火災の当日実況見分を行ない、火の廻りが早かったところから、一応火元とみられる処一ヵ所だけ油の浮遊試験をしたが油の浮遊は認められず、外観上焼跡に缶類の存在は認められなかったこと、書道室と美術準備室の焼跡を掘り起した際廊下反対側の窓側から教室中心部にかけて、円筒形で直径一〇センチメートル、高さ一五・六センチメートルぐらいの缶が一〇数個から二〇個近く発見されたが、殆んど変形しており、実況見分に立会した野田千利教諭(防火管理総括責任者)が美術の時間に使用する教材(オイルステン)の入っていた缶で、美術準備室に置いてあったものである旨の説明で、捜査員は火災に関係ないものとしてすべて廃棄したこと

七  右第一、第二校舎は興人の女子寮として使用されていたのを昭和二六年頃譲り受け校舎に改築使用していたもので可成りの老朽建物であったこと

八  八代地方の一月一一日午後九時頃の天候は晴、月齢二一、月の出午後一一時二一分、月の入翌日午前一〇時三九分であり、一月一四日午前六時の天候は晴、月齢二三、月の出午前一時二九分、月の入午後零時三九分であること

九  第二校舎の北側に、校舎と平行して自転車置場が建てられていたこと。

第五  被告人らの捜査段階における各供述調書の任意性について

被告人らの捜査に当った警察官外村国夫、中川貞盛、林田武夫、平田忠璋、池田芳郎、中村五人、本山秀樹、舟津敬一は、当審又は原審において、被告人らが少年で暗示を受け易いことを考慮し、他の者の供述内容を知らせず、できる限り被告人らの供述するままを録取するよう努め、かりに被告人らの供述に喰い違う点があっても強いてこれを合わせようとしなかった。現場検証及び実況見分の際は、被告人らの自発的指示説明をまって行ない、ことに被告人らの犯行前後の行動等についての実況見分は、七月二六日中川部長がBを、外村部長が被告人を、翌二七日本山部長がCをそれぞれ担当して別個に行なったが担当者間で事前に話合ったことはない旨証言し、検察官吉住久太郎も当審において同旨の証言をしており、被告人らも原審で検察庁では無理な取調は受けなかったと述べていること、右各証言は、被告人らの各供述調書及び検証、実況見分の各調書にみられる相互の供述、指示説明の喰い違いによって疑いなく真実であると認められるのであって、以上の事実を綜合すると、被告人らの捜査段階の各供述調書は、いずれも任意性があると云うことができる。

第六  被告人らの供述の信用性

被告人らの供述中弁護人指摘の諸点はいずれも本件犯罪行為の主たる内容、したがって被告人らの犯罪の成否に関する枢要な事項であり、その供述するところが信用し得るものであれば、相互に補強し合い、他の情況証拠と相俟って、本件各火災と供述者とを結び付けるに足る事項である。しかしながら被告人らの右に関する各供述内容は次々と変遷するばかりでなく相互に喰い違って帰一するものが少なく、何れの供述が真実であるか、あるいは虚偽であるか容易に断じ難いものがある。以下各人毎に順を追って検討する。(なお、以下司法警察員に対する供述調書は員面、検察官に対する供述調書は検面と略称する。)

一  まずCについては、本件による逮捕前に作成された供述調書(四通)及び同人作成の上申書があるが、右は同人の逮捕後の供述調書とその内容が全く異なっている。すなわち、右の各証拠は、第一の一で述べたとおり、二回目火災はBとDが放火したという内容のものであるが、Cは本件各火災の当夜のアリバイがあって本件とは関係のなかったDを共犯者として指摘していること、本件当時Cは高校在学中でクラブ「千賀」では働いておらず、また右犯行にB、Dを誘い込んだと云いながら、自らはこれに加わらず、右両名が放火して帰ってくるまで同店で寝て待っていたというのは不自然であること、自分は現場に行っていないので放火の具体的状況は分からないと自己の責任を回避するような供述をしていること、同人自身当審において、警察で述べたことは自分が勝手に考え出したことであり、上申書は全くの作文である旨供述していること等からして、同人の右供述調書及び上申書は到底信用できないものと云わなければならない。

二  次に、Bの供述は、八商侵入から校舎へ立入るまでの行動、すなわち、塀を乗り越えて運動場に行き便所に近い処で暫らく煙草を吸いながら遊んだこと、第二校舎の窓ガラスをブロック片で割って侵入したこと、その正面の教室後方が放火場所であること、教科書等を破りマッチで火を付け、屑箱に入れ更に掃除道具箱に入れたこと、短時間で激しく燃え出したこと、(以上一回目火災)、第一高校正門前及び裏通りで警備員を目撃したこと、第一校舎書道室で美術室との壁ぎわにある作品棚にオイルをかけた紙を入れマッチで火をつけ放火したこと、Cがオイル缶を教室に持って来たこと(以上二回目火災)、Bが一階、被告人が二階にそれぞれ別個に放火したこと、Bの放火の動機にF子に対する気持がからんでいること(以上両火災)以上の各事実については、その供述内容はほぼ終始一貫して変化するところがなく、内容は具体的かつ詳細であり、その供述する各放火の場所は第四の一、二から推認される火元と一致し、火を付けた状況に関する供述は犯人でなければわからない部分があり、放火の具体的方法については、警察官がBの使用したと同種の資材を使用し、その供述する方法に従って実験した燃焼、焼燬の状況と一致し、所謂「秘密の暴露」に当るものがあること、二回目の放火の際オイルを使用したことはBの自供があって始めて判明したことであるが、同人は当審において、捜査官に「油差し」と供述したところ、何時の間にか一立入りオイル缶となった旨供述している。しかしながら、同人は六月一七日員面で早くもこれについて、一立入りぐらいの缶で、上の方に小指ぐらいとそれより少し大きい二つの穴が開けてあった旨供述し、同調書には一見して油差しとは形状を異にする同人作成の高さ約二〇センチメートル、直径約一二・三センチメートルと記入された円筒形の缶の図面が添付されていることに照らすと、同人の右弁解は信用できない。そしてBは本件火災前に第一高校に行ったことはなく、本件火災後二度行っているが、その時は本館に行っただけで第一、第二校舎の方には行かなかったと供述しているのに拘わらず、右各校舎の教室の数、教室内部の状況等を最初の自供の段階で図面まで書いて説明しており、その内容は、学校関係者の述べる焼ける前の現場の状況と一致していることが認められる。これに対して被告人との出会い、共謀の時点、使用車両(以上両火災)、二階における被告人の放火の目撃状況(一回目火災)、共謀成立後第一高校に行くまでの間自動車で走行した道順(二回目火災)については、程度の差はあるがいずれも変遷し、被告人の供述とも喰い違っている。

ところで、Bは七月二九日の家庭裁判所の審判の際も自白し「どうせ隠しおうせぬと思ったし、何しろ自分自身が嫌になった。それでこの際はっきり云ってすっきりしたいと思ったので警察で自供する気になった」と陳述していること、その供述する犯行の動機は原審証人F子の証言によって裏付けられており、十分納得できるものがあること、別件で逮捕された直後の六月一四日取調官から追及される前に自供を始めていること、その供述の中で右の変遷していない部分は、被告人らのうちで最も具体的かつ自然であり、原審証人G子及び右F子はいずれもBが「自分が火をつけた」と云った旨証言していること、もっとも、Bは八月一五日の審判の際本件各犯行は身に覚えがないと否定し、それまで自供したのは火災当夜のアリバイが証明できず、どうでもなれという気持だった。共犯としてAとCの名前を出したのは火災当時同人らと友達付合いをしていたからである旨供述するほか、Bの九月一日付検面調書によると、鑑別所へ行ってから母が面会に来て、母から「していないのならしていないと言うように、ほかの者のことも考えてみろ」と云われたので、本当はしていないのだから、していないと言おうと考えるようになった、家庭裁判所で認めたのは、証拠が裁判所へ送られた以上否認しても駄目だと思ったからである旨供述しているが、むしろそうした理由ではなく、被告人が右と同日付検面調書において、七月二九日裁判所に拘置所の人に連れていかれたが、拘置所の人が帰ってから裁判所の事務室や調査官室で三人一緒だったので話をした。私が二人に「お前たちはしとるとか」と聞くと二人とも「しとらん」と云ったので二人は否認していると思った。鑑別所で風呂の時や裁判所と鑑別所間の車の中でも二人と話をした旨供述し、Cも八月一二日付審判調書で、裁判所にきたとき二人に「本当にやったのか」ときき、Bには「三人の名前をあげたのが一番悪い、そんなことを云うからいろいろもつれが出る」等と云った旨供述しており、Bもまた当審において裁判所で被告人やCと話す機会のあったことを認めており、七月二九日の審判の際被告人らが本件のことで話し合うことができたため、Bも被告人らの様子が分かり、同日の審判では犯行を認めながら、その後は他の二人に同調し犯行を否認するに至ったものと考えられる。しかも同人は、原審判決後控訴しながら一一日後にはこれを取下げて服役し、当審における証人尋問に際して一回目は、事件のことは忘れようと努力している。AやCの名前を出した理由は記憶しない等と被告人に関する質問には答えを回避しようとし、二回目も右と同様であるが、自供したことについて、故意に虚偽の自白をし、後で刑事補償を貰う積りであった旨不自然な供述をしている。以上の事実からしてBの各供述調書中B自身に関する部分は信用できるものと考えられる。

しかしながら、前叙の変遷している部分は、すべて被告人が関与している部分であって、例えば、本件の発端となる被告人との出会い(一回目)について、供述の回を追って出会った時刻、場所が被告人の供述との間に差異が小さくなり一致してくるが、そのときのBが歩いていた方向については、最後まで両者の供述は逆の方向となっていて一致せず、出会った後Bが岡川病院に帰る際の行動についても、「被告人の車に乗って」「歩いて」「途中まで車、その後歩いて」と次々と変化し、一貫して変わらないのは、出会った後被告人が岡川病院のBの病室に来たという点だけである。しかし、被告人はこの点について、検察官の右の事実を指摘しての問に対し、岡川病院に行ったことはないと明確に否定していること、二回目の出会いについても、Bは被告人に来るように電話したところ、被告人からは、人に会わなければならないので一〇時頃までは行けない旨の返事であった。電話した時間は記憶にないが、被告人の仕事中だったと思う、と供述する。しかし、当日H方で新年宴会を開くようになったのは、その日(一月一三日)被告人の勤める中石自動車に遊びに来ていたHらと仕事が終って雑談しているとき急に決まったことであり、このほかに、被告人が人に会う約束をしていたとか、人に会った事実は証拠からは窺われない。そして、被告人は、その日新年宴会を開くことが決まったので、すぐ大野病院に鼻の治療に行って帰り、仲間と一緒に、途中肉など食事の材料を買ってH方に行ったと供述し、右の事実は他の証拠によって裏付けられている。そうすると、Bが云うように、電話したのが仕事中であれば、人に会う用事があると被告人が返事する筈はないし、仕事が終った後であれば被告人は仕事場に居らず、連絡のつく道理がない。そして、午後一〇時頃は、被告人はまだH方に居て、午後一一時頃Iらと共にH方を辞去していることも証拠上明らかであって、Bが云う時間にBを岡川病院に訪ねることは客観的に不可能であることが明白である。その為か、Bの供述は最終に至って、被告人が来たのは今まで述べて来たのより遅い時間であったと、漠然とした供述をもって取り繕わざるを得なかったものと解される。かかる意味において、この点についてのBの供述は容易に措信できない。また使用車両については、一回目火災についての六月一六日員面では白色サニーバンだったと思うが、あるいは緑色マークⅡであったかもしれないと供述し、その後はマークⅡとなっている。二回目火災の場合は六月二四日員面では古いクリーム色の普通乗用自動車だけを使用している旨供述し、その後緑色マークⅡと白色サニーライトバンの乗り継ぎの供述となっている。ことにBは一、二回とも八代外港等で本件に使用した自動車を自ら運転して遊んだと云うのであり、かかる体験を有する以上、その折の自動車の種類を間違う筈はないと考えられる。次に、共謀の成立時期について、一回目火災の場合、Bは最後の自白調書である七月二八日員面に至って、走行中の車内で放火の相談が出来たと供述するほかは、自分が教室に入って紙に火を付けたのを見て、被告人は黙って二階に行った旨供述するだけであって、共謀の成立は複数の犯人による犯行の出発点であり、真にそれを体験した者であれば、決して間違う筈がない事柄である。しかも自供の最終段階において、右の如く変化し、その変更の理由が調書上明らかでないこと、そして、Bは八商侵入後運動場の方に行き、暫く煙草を吸って遊び、その後放火に着手した旨一貫して供述するのであり、ドライブ中の車内で放火の話合いが成立し、放火のため八商に向ったとするなら、八商侵入後運動場で遊んだ行為が、共謀成立から放火に至る一連の目的行為の中で必然性を欠く異質のものであり、理解し難い行為であると云わざるを得ず、一回目火災の共謀についてのBの供述が真実を語っているものとして受取ることには躊躇せざるを得ない。また、Bは被告人の放火の様子を目撃した状況(一回目火災)について供述しているが、六月一六日員面では、私がしたのと同じようにノートみたいなものを破りながら燃していた、炎の高さが約一メートルにも上っていた、被告人に「また上で燃やしよっとや」と声をかけたと具体的かつ詳細に供述し、被告人の自白を補強するに十分であるように見受けられる。しかし、その後は、何か声をかけたと思うが覚えていない(七月二二日検面)と供述しており、右のように声をかけたことが自己の体験に基づくものであれば、その後、覚えていないなどという供述になる筈がなく、声をかけたのが事実なのか疑わしい。しかし、より重要なことは目撃したという被告人の放火手段についての供述部分である。すなわち、Bは、被告人が自己と同じ手段で火を燃やしていたと云うのであるが、被告人の述べている放火手段は教科書などを広げて手に持ち、火をつけて床に置き、その上に広げた教科書などを積み重ねる方法で、Bと同一ではない。また、逃げる際二階から降りて来た被告人が、階下の炎上する有様を見て驚き、「消そう」と云ったと述べるが、二階で火を放ってきたという被告人が階下の火を消そうなどと云う道理がなく不合理であること、二回目火災の自動車交換の際、中石自動車での行動について、被告人はBに車を出しておくように云って、オイルを取りにピットに降り、出て来たとき既にBが工場駐車場に道路の方を向けて車を持出していたと云うのに、Bは被告人が車を持ち出し国道三号線の処に運転して来たと述べ、その間用便を足していたと供述し、何処にあった車を、どのようにして持出したかには一切ふれていない。そして用便を足していた旨の供述は技巧にすぎるきらいがあり、Cが最初から白色ライトバンを利用したと供述していることを併せ考えると、中石自動車での車交換の事実には疑念の余地がある。そして被告人とBが最初供述していた市役所での車の交換について、前顕吉住検察官の当審供述によると、被告人らの右供述があったので、警察は無断使用の形跡のある車両がその頃市役所周辺に存在したか否かの裏付け捜査を行なったが該当するものがなかったと云うのであり、捜査の流れから警察は犯行に供された車が、警備員の目撃した白色サニーライトバンであるとの前提のもとに、その出所について更に追及したものと解され、その結果被告人が勤務する中石自動車に、本件犯行当時白色、あるいはそれに近い色のサニーライトバンが数台存在し、使用し得る状態にあったことが原因となって、中石自動車での車の交換という供述を引き出すに至ったものではないかと推認する余地が無いとは云い切れず、また犯行当時から既に半年以上経過した時点において、無断使用の形跡のある車両の有無の捜査が完全なものであったとは考えられない。しかして、その後の走行経路に関するBの供述は、被告人の云う方向と同一ではあっても、走行距離に著しい違いがあり、果してそのような事実があったのか疑わざるを得ないほど被告人やCの供述と喰い違っていること、逃亡後被告人と別れた場所についてもBの供述は揺れ動いていること等の例にみられるように、Bの供述のうち被告人にかかわりのある部分は、真に体験したことに基づく供述とは考えられないほど被告人の供述と喰い違い、動揺しており、Bの供述中被告人に関わる部分は容易に措信できないと云わざるを得ない。

三  Cの逮捕後の供述調書は自供、否認とくるくる変化し、その自供内容も簡単であるうえ、Bや被告人の自供ともかなり異る部分が多く、なかには、当該事実が真実あったのかどうか疑わしいほど著しい喰い違いをみせている部分すら見受けられる。例えば、八商侵入前の走行経路について、八代市を中心としてみた場合、被告人とBは南の日奈久町あるいは水俣市方面というのに対し、Cは北の鏡町方面と供述していること、Bは放火後、Cのアリバイ作りのため、Cを自宅まで送ることにして国道三号線に出て宮地付近まで行った、と供述するのに、Cは七月二八日最後の員面で、ようやく国道三号線に出たことは記憶しているが、何処まで何のために行ったのか分からない、と供述する始末である。逮捕直後、Cは、被告人やBと三人で二階に行って放火したと供述し、その理由について原審で、火災当時二階の女子経済二年一組の教室が火元だという話を聞いていたから、そのように供述したと説明していること、CはB及び被告人の放火手段について、紙類を床に積み上げてオイルをかけ火をつけたと供述するが、被告人やBの供述する放火の手段、放火した教室内の場所等とは著しい差異を示している。そして、Cは取調べの最初、本件の共犯者としてBとDの名前を挙げ、本件で逮捕されるやBの名は一貫して変わらないのに、Dの代りに被告人の名を出した理由が調書上さだかでなく、C自身当審でその理由は分からないと証言するなど奇異な点がなくはない。当時Bは共犯者として被告人の名を出し、他方CがDの名を挙げていた時のCの六月一五日員面に「お尋ねのAは泉中学の二年先輩で良く知っているが、友達づき合いはなく、二月二〇日すぎ、千賀で働くようになってから話すようになった」旨の供述記載がみられることからすれば、捜査官の誘導あるいは示唆によるものかとも考える余地がある。また同人はB同様控訴してすぐ取下げ、既に刑の執行を受け終っているが、服役した理由について、当審で同人は、控訴を維持すれば、何時出所できるか分からないと云われ、早く出るため控訴を取下げて服役した旨説明するところ、原判決をみると、確かに未決勾留日数の本刑算入により、服役すべき残り刑期は二ヵ月足らずであり、右供述は納得できないではなく、控訴を取下げ服役したことをもって、Cが真実本件犯行に加担したことの一つの証左とはなし難いかもしれない。しかしながらCはBと泉中学校の同級生として、本件当時親しく交際し、岡川病院入院中のBの病室によく出入りし、学校に行くのを嫌がっており、二月二八日自主退学の形で退学させられているが、退学届を出すのにBが同行し、Bの勤めるクラブ千賀に共にボーイとして働き、三月末頃共に都城に行くなど、本件火災後行動を共にしていること、最初参考人として事情聴取を受けた際「一回目火災は知らない。二回目火災には自分は関係がない、アリバイがある」などと犯人かと思わせる言動があったこと、Cを取調べた係官の証言やCの当審における供述態度から、投げやりな反面かなりふてぶてしく複雑な性格であると窺われること等を併せ考えるとCの供述調書には嘘の部分もかなりあると同時にその自供部分にはなお信用できるものがあると考えられるが、他に有力な証拠がない限り、これをもって被告人の有罪認定の補強証拠とすることは躊躇せざるをえない。

四  被告人の自供調書は、全体としてみたとき、最初漠然としていた供述内容が次第に確かな供述となってきていること、供述の都度具体的、詳細に事実を供述し、その限りでは真実を供述していると思われるのに、事実関係全般にわたっては多かれ少なかれ変遷していることである。勿論取調べが進むにつれ、取調官の追及、示唆、あるいは被疑者自身の回想、記憶喚起等によって当初不明瞭な記憶が鮮明なものとしてよみがえることのあることは当然であるが、被告人の場合当該供述調書の他の供述部分から、あるいは、その後に続く供述内容からして、当然明確な記憶として存在しておるべき事実について不明確な供述がなされ、後になって明確にされる。例えば、一回目火災の際の八商への侵入口について、七月一五日員面に至るまでは正門あるいは他の門かはっきりしないと供述しているのに、侵入後の行動、校舎への侵入手段、放火の方法等については明確に供述していること、そして記録によると、正門と裏門とは大きさ、形状、設置された場所の模様を全く異にし、記憶違いをする要素がなく、しかも、被告人は当時交際していた女性が第一高校近くのJ耳鼻科医院に看護婦として勤務し、自らも鼻の治療に右医院に通院していた関係から、第一高校の外廻りの状況は知っていたというのであるから、これらの事実に徴すると、侵入口が正門か他の門か判然としない筈はなく、その後一貫して裏門と供述しており、この間の記憶の推移は不可解である。また七月七日員面では、二階の奥の方から二番目の教室に放火したと詳細に供述しているのに拘らず、二階に上る階段が、Bの放火した教室の右にあったか左にあったか記憶しないと述べている。そして翌八日には校舎に這入った窓から見て廊下を右の方に歩いて行くと、Bが燃している教室から三つぐらいで教室がなくなり行き止りで、そこから二階への階段があったと供述し、前日の階段が右か左かはっきりしない旨供述したことが嘘のように思われること等を考えると、不明確なものが明確となった原因を右と同様に解することには疑問があり、供述の変遷についても同じことが云える。右の如き特徴は、体験しない事実を、何とかつじつまを合せて供述しようと苦慮した結果であるとも解する余地がある。さらに、調書添付の被告人作成の第一高校の図面をみると、検証の前後で全く異なり、検証前のものが現状と少しも一致していないのに比し、検証後のものは現状と一致している。勿論第二校舎の教室の数は一致しているが、それは自己の学んだ泉中学の校舎を思い出して記載したというもので、同時に作成した校舎の配置図が右のとおり全く一致していないことを併せ考えると、右弁解も或る程度納得できるものがある。そして、何故に右のように変遷し、奇異な供述となったのか、その理由は調書上さだかでなく、被告人は当審及び原審において、自己の供述は取調官の示唆、誘導と想像によって述べたものであると弁解するところ、被告人の供述中には客観的事実と符合するものがないわけではなく、弁解どおりに容認することはできないが、さりとて、あながち牽強附会の強弁であるとして排斥することは躊躇されるところである。

そこで、以下項を改めて個々の事実に関する被告人の供述を検討する。

第七  本件放火に関連して証拠上ほぼ確実と認められる外形的事実及び証明力の判断に関係すると思われる主要な事実は第四に指摘したとおりであって、被告人の供述する事実のうちに、右の事実と符合し、あるいはこれら事実に副う趣旨のものが存在するならば、被告人の供述の信用性はより確かなものになると共に、逆に相反しあるいは喰い違うならば、これが供述の信用性に少なからざる影響を及ぼす結果となることは明らかであると考えられるので、最初にこの点からみることにする。

一  符合する点

(一)  本件各火災について、被告人及びBが放火したとする場所は、第四の一、二記載の最も焼燬の激しかった場所、したがって火元と推認される場所と符合する。

(二)  警備員を目撃したこと、その時刻、警備員の居た場所、服装、その人数、その際の逃走方向、使用した車両の色、車種等に関する被告人の供述は、第四の五と符合する。

(三)  第二校舎が上、下各四教室であり、その北側に自転車置場があること、第一、第二校舎とも老朽建物であったことは被告人の供述するところであり、右は第四の一、七、九の各事実と符合する。

二  相違する点

(一)  被告人が警備員を目撃したときの車両の位置について、被告人は七月七、八、一二、一六日各員面及び同月二二日検面において、八商正門前で車の前部が正門に正対するよう公衆電話横橋の上に、ライトもエンジンも切って停車した、車から降りようとしたとき(略)ガードマンらしい二人連れの男が八商正門を開けて出て来た。Bがライトとエンジンを同時にかけ、急発進し左折して、キーキーいわせながら田中町方面へ逃げた旨供述するところ、七月一四日の検証における被告人の指示によると、その時の車両の位置は、第一高校の正門から幅員七メートルの道路を隔て、該道路西側端に、道路に沿って設けられた幅二・四メートルの用水路上、ほぼ正門の正面の位置に、右正門に対し直角の方向に架けられた幅二・九メートルのコンクリート製橋上で正門に向けて停車しており、車の先端から正門までの距離は約七・四メートルである。他方警備員竹島行徳の右の点についての供述は第四の五の(一)のとおりであり、同人は八月一〇日及び一〇月四日の実況見分に際し、次のとおり指示するところ、各指示した位置にいくらか相違はあるが、いずれも第一高校正門南端及び右橋南端を結ぶ白線で表示された横断歩道上で、正門とは右道路を隔てた反対側道路側端に、車首を北に向け正門と平行に停車していた、と云うものである。そして、B、Cの供述及び指示は、竹島指示の位置から北方に約一〇メートル内外寄った地点と云うほか竹島と一致する。(但し、Bは当初車首を南に向け、正門より南側の、道路正門側に停車した旨供述している。)そうしてみると、この点については、被告人の供述は第四の五の(一)の事実と相違し、B、Cとも異なる。

(二)  一月一四日午前四時三〇分頃から午前五時前頃までの間富田、竹島両警備員が第一高校裏側道路で待機し、その後興人裏を通り帰社したことは第四の五の(八)のとおりであり、他方被告人は前記各員面等で同日午前四時から同四時三〇分頃の間に、第一高校裏側道路興人裏側に車を停め、右道路沿いの第一高校ブロック塀を乗り越えて侵入した旨供述する。そうしてみると、被告人の第一高校への侵入が、富田らの到着前であるならば、同人らに侵入を目撃されていないことは当然であるが、被告人が車を停めたという場所は、富田らの帰路途上に当るので、同人らが帰社する際に原審富田証言にみられる如く、正門前で目撃した白色サニーライトバンに不審を抱き、再度来る場合は裏側からであろうとの推測のもとに、前叙のとおり第一高校裏側道路で待機していたのであるから、同人らに右車両を発見されている可能性が強いと云わなければならない。また、富田らが帰社する前に逃走したと仮定しても、被告人は侵入した個所から校外に逃れたというのであるから、放火の時間等考え合せると、逃亡の時刻は富田らが待機していた頃と推測され、そうすると、当夜の月の出の時刻、天候が第四の八のとおりである以上、月明りによって、被告人が塀を乗り越え退去する姿を富田らに発見される可能性はかなり大きいと考えられる。さらに、第四の四によると、同日午前五時二〇分頃には第一校舎は、一階の状況は証拠上不明であるが、既に二階の窓、軒下から炎を吹き出して炎上し、やがて屋根から火を吹き上げる状態になっており、《証拠省略》によると、Bの供述に従い実験したところ、六分四五秒で炎が天井に達し、八分二〇秒で板壁が燃え落ちる状況になったことが認められること、第一校舎が前叙のとおり老朽校舎であったこと等を併せ考えると、富田らの右場所への到着前、あるいは立ち去った後、被告人らが右停車地点に来て、その後第一高校に侵入し、火を放って逃走することも、(着火後校舎が炎上するまでの時間を考えると、)いずれの場合も多少無理があると思われる。そうすると、被告人の右供述は結果的に第四の五の(八)と矛盾することにならざるを得ない。

(三)  被告人は一回目火災について、六月一五日、七月七、八、一五日各員面及び同月二二日検面で、Bが第一高校侵入後石を拾ったこと、その石の大きさ、形状及び当夜の明暗度について具体的に供述しているが、当日の月齢、月の出の時刻は第四の八のとおりで暗闇の筈であり、同じく暗闇であった一〇月四日午後六時五〇分から同八時三〇分までの間行なわれた実況見分の結果によると、六〇センチメートルの間隔を置くと、相手の目、鼻、口、耳の位置は大体判るが、太さについては判らず、九〇センチメートル離れると顔の輪郭が判るだけで、三メートル離れると白っぽい服装でない限り、一見しただけでは人の立っていることすら判らないことが認められ、これらを綜合して考えると、右の被告人の供述は結局第四の八に基づき認められる明暗度及び右視界に関する実況見分の結果と矛盾することになる。しかして、第四記載の各事実は、竹島の視力に関する部分を除いてすべて、被告人の取調べを行った頃までには捜査当局に判明していた事実であって、捜査官により、意識、無意識の誘導、暗示による追及が可能であったものである。したがって、被告人の供述中右の如く符合するものがあっても、所謂「秘密の暴露」には当らず、供述の信用性を裏付ける一つの資料たり得ても、これを証明するに足りる決定的事実に該当するとは云えない。

三  次に一回目と二回目の火災についての供述をその内容に立入って検討する。

一回目火災について

(一)  Bとの出会いについて、被告人の供述は、会った時間についての変化はあるが場所、被告人らの進行方向等についてはほぼ一貫して変らず、体験に基づく供述であると考えられるが、前示のとおりBの供述とは異っていること、被告人は家庭裁判所や原審で、二月末か三月初め頃Bと出町で出会ったことがあるので、その時のことを思い出して供述したものである、と弁解し、Bもかかる事実のあったことを供述しており、右弁解は一応裏付けがあると解されることに照らすと、体験に基づく供述と解されるとしても、これが一月一一日の出来事を語っていると限定して理解するのはいまだ相当ではないと考えられる。

(二)  共謀の場所、八商への侵入口が被告人とBの供述するところが喰い違っていることは前叙のとおりである。被告人もBも、侵入後Bが先に立ち、被告人がこれに追従し同じ経路を辿って第二校舎に行ったと供述する。しかしながら、両者の供述、検証における指示説明で一致するのは、第二校舎北側ほぼ中央附近に行ったことだけである。しかも、Bは右地点に行く前に運動場に出て、便所寄りの方で煙草を吸って遊んだ後右地点に行ったというのに対し、被告人は校庭侵入後小走りに、まっすぐ右地点に行ったというのである。そうであれば、当然被告人は右地点でBを待つことになるが、かかる内容の供述は全く見当たらず、不可解であり、その為か、被告人の七月八日員面に、侵入後右地点に行く間に、何があったか覚えないとの記載がみられ、取り繕われている。そして、右地点に行き着く途中Bが石を拾ったのを目撃した旨の被告人の供述が不合理であることは前に検討したとおりである。

(三)  Bは放火の手段について、終始教科書等を破いて床に置き火をつけたと供述している。一方被告人はこれを目撃したと供述し、七月八日員面まではBと同旨を供述するけれども、七月一五日員面以降は教科書やノートを燃え易いように広げて手に持ち、火をつけて床に置き、更に教科書類を広げて置いたと供述し、自己の放火手段についても右のように二種類の方法を供述している。右の結果からするかぎり、果して被告人がBの放火するところを目撃していたのか、はなはだ疑わしい。

(四)  被告人は自己の放火場所について、七月八日員面には「どの教室に火をつけようかなと思いながら廊下を歩いてみると、どの教室も窓や戸が閉っていたので、更に奥に進むと、奥の方から二番目の教室の戸が開いていたのでその出入口から教室に入った」旨の記載があるのに、七月一五日員面では「二階に火を点けに行こうと思い、階段をかけ上り東側から二番目の教室の出入口から入った。出入口は閉めてあったがすぐ開いた」旨供述し、自らが放火した教室へ行く時の状態に顕著な変化があると共に、入口の戸の開閉の状況が相反している。そして、入口の戸の開閉の状態は前の供述で、被告人が放火した教室を選んだ原因となっているだけに、右の如く相違していることは奇異の思いがすることを否定できない。

(五)  被告人とBが放火後別れた場所について、後では二人の供述は一致するが、最初は異っている。放火という極めて印象的な出来事のあった日何処で別れたか二人の供述が喰い違うこと、話を交すことなくあっさりと別れていることもまた不自然である。

二回目火災について

(一)  被告人はBやCと出会った時間について、最初午後一〇時頃と説明しているが、七月二五日員面から午後一一時すぎと訂正する。これは逮捕後の捜査の結果、一月一三日午後七時頃から午後一一時頃まで、H方で新年宴会が開かれ、被告人が最初から終りまで参加していたことが判明し、午後一〇時頃被告人がB、Cと街で出会うことが客観的に不可能であることに因るものである。しかして、右事実が判明する前の被告人の供述は、一月一三日夕食後コロナマークⅡで八代市内をドライブしていたとき午後一〇時頃喜楽舘前で歩いているBとCに出会った、というもので、その内容は出会った時間と一体をなしており、しかも新年宴会とは無関係に語られているから、時間の点だけが間違いで、他は真実であると云えるものではなく、被告人の右供述は体験に基づかざる供述と云うのが至当であり、このことは、被告人は体験に基づかざる事実を供述する場合があり得ることを明らかに証明するに足るもので、被告人が想像して供述した旨の弁解を裏付けると共に他の供述部分の真実性の判断、ひいては被告人の自白の信用性に少なからざる影響を及ぼすことは避け難いと云わなければならない。

(二)  被告人が警備員を目撃した際の、車両の位置について説明するところが、警備員のみならずBやCとも異っていることは、既に指摘したところであるが、その違いは全く別の事実かと思われるほどであり、更にその時の模様について、被告人は「Bが車を急発進させ、キ、キいわせながら左折して逃走した」とタイヤの軋み音まで供述するが、これを目撃した竹島は「急いで発進したという感じて走り去った」旨、また、車の走り去る音を聞いたという富田は「タイヤの軋む音は聞いていない」といずれも原審で証言していること等を併せ考えると、右自動車に果して被告人が乗っていて自己の体験事実を語っているのか疑わしいというべきであろう。

(三)  次に第一校舎への侵入方法について、被告人は最初一回目の時と同様校舎の中央附近の窓ガラスをCが割って侵入したと述べるが、何故かその後、Cが渡り廊下からの校舎出入口のガラス戸を割って戸を開けて侵入した、と説明する。しかしながら、記録によると、右の渡り廊下から第一校舎への出入口には戸は存在しないことが明らかであり、右供述部分は虚偽と云わざるを得ない。

(四)  自己の放火場所について、被告人は一回目火災の供述と同様初めは、戸が開いていたからと云うが、その後、閉っていた戸を開けて這入った、と変化し、放火手段の変化も同様であるが、そのように変遷した理由は調書上明らかでなく、この変遷は極めて不自然、不合理である。

(五)  被告人とB、Cの別れについては三人三様で帰一するところがなく、何れを措信すべきか苦慮するところであり、到底同じ事実を体験した者の供述とは考えられない。

しかして、以上検討したとおり、これら事実は被告人の自白の信用性を著るしく減殺するものと云わなければならない。しかし他方、被告人の供述中には(一)さきに検討したとおり、証拠上認められる事実に符合する部分があるほか、(二)被告人は本件逮捕時まで一度も第一高校に行ったことはない、と云うのに、検証前に第二校舎前に自転車置場があること、第二校舎が上下各四教室であることを供述していること、(三)逮捕前の六月一五日に手段、方法は後で変化はするが、一回目火災はBと二人で放火したと自供していること、(四)検証の際、当時すでに第一、第二校舎は撤去され、跡に新校舎が建設中で僅かに第二校舎の土台を残しているだけであるのに、格別迷うことなく校舎の位置、それに至る経路等指示し得たこと、(五)本件火災後被告人は、友達が居住するKアパートで、友達が集った際、一回目火災のとき第一高校を見廻りしているガードマンから疑われたとか、煙草に火をつけて、マッチを放り投げたら油に火が付いて火事になった、とか話していること、更に、一回目火災発生後間もない時期に、当時親しく交際していたL子に電話した際第一高校の火災は自分が放火した旨告げていること、以上の各事実が記録によって認められ、右の事実は被告人が真犯人であることを疑わしめるに足りる情況証拠と云い得るかの如く思われる。しかし詳細に吟味すると、(五)を除くその余の各事実は、被告人の自供によって捜査当局に明らかとなり、裏付けが得られたというものではなく、捜査当局には被告人の逮捕以前に明らかになっていた事実ばかりであり、新規性あるいは「秘密の暴露」に該当するものではなく、調書の随所に、取調官の示唆に富む追及の跡が窺える供述がみられることを考えると、その証拠価値を高く評価することは相当でないと思われる。そして、(五)の事実は、被告人の自供によって明るみに出た事実ではあるが、放火した旨の話は、これを聞いたL子やMらが、原審で、冗談で云っているものと思えた旨証言していることからすると、右もまた高い証拠価値を有するものとは考えられない。ただガードマンに疑われた旨の発言は、よしんばそれが一回目火災に関して発言されたものであったとしても、二回目火災における竹島証言と一致するものであり、無視し難い情況証拠と云わなければならない。そして、Bは自供の最初から一貫して一回目は被告人と、二回目は被告人及びCと三人で放火したと明確に区別して供述しており、当審において、取調検察官吉住久太郎は、Bが無関係の者を巻き込むことが一番心配で、Bに何度も念を押したが答えは変らなかったと証言し、Bは当審で、被告人の名を出した理由について前叙の如く述べるが、取調官から共犯者としてDの名を出されたが否定した。その他友人の名前や第一高校の女生徒の名も云われたが、それも否定していると証言しており、これからすると、本件火災に無関係の者については否定する態度をとっていたものと解して誤りないものと思われること、そして、Bは被告人は関与していないと証言しながら、被告人の名を挙げたことについては(その理由は)判からないと供述し、前示のとおり、答えを極力回避しようとする態度が明らかに看取され、被告人は加担していないと証言する態度と、Dらの名を出されたが否定したと述べる証言態度とは明確な一線を画して異っており、このことは、真実を知る者のみが示し得る態度として、被告人が加担しているということへの強い心証を惹かれることを否定し得ないこと、被告人が六月一五日一回目火災について自供していることは、身柄不拘束の段階での自白であるだけに、よしんば放火の手段等が後で変化したとしても、犯人であるからこそ自白したもので、信用するに足りるとも考えられるが、以上検討した限りでは、自供に少なからざる疑惑、ことに本件の核心をなす放火の手段について供述が変遷し、変化したことの理由が全く解明されていない以上、被告人の自供調書は、合理的な疑いを入れる余地がないほど確かなものではないと云わざるを得ない。

第八  取調官らは、被告人が真犯人である旨の心証を得た根拠として、(一)自供時の態度が否認の場合と違って泣き出して心境を述べ自白するなど真摯なものであったこと、(二)犯行前の足取り、使用車両、校舎侵入の手段、方法等がBの供述と一致していること、(三)ガードマンを見たと供述していること、(四)警備員の云う車行方向と被告人の供述内容が一致したこと、(五)一回目の八商侵入に際し被告人がBを押し上げたと供述したが、これがBの供述と一致したこと、(六)被告人の放火手段についての供述がBの供述と一致したこと、(七)被告人の供述するオイルの燃え具合が実験結果と一致したこと等を挙げる。しかし、既に検討してきたことから多く説明するまでもなく明らかであるように、(一)の点は自供内容が変遷し、中には明らかに虚偽の事実が含まれていて、必ずしも真実のみを供述しているとは思われないこと、(二)の点は必ずしもBの供述と一致しておらず、二回目火災について使用したとされる白色サニーライトバンは火災直後目撃者である竹島から不審車として警察に報告され、捜査当局も二回目火災に関係する不審車としてマークし、被告人らを追及したと窺われること前示のとおりであり、また被告人所有の緑色マークⅡにはBは本件火災の前年に泉村で被告人に乗せて貰ったことがあってよく知っており、これらの事実を併せ考えると使用車両がB供述と一致したとしても、これをもって、その心証の一根拠とすることは相当でない。(三)及び(四)点は確かに客観的事実と符合するものであり、問題であるが、既に述べたように、被告人の供述する車の位置、発進時の状況は警備員のそれとは一致しておらず、必ずしもその根拠となり得るものではない。(五)の点は確かに犯人のみが知り得る事柄に属するが、Bの云う二人の侵入場所と被告人のそれとが前叙のとおり異なっている以上、被告人がBを押し上げるなど有り得べくもないことであり、逆に被告人の自供が必ずしも真実を語っているものではないことの一つの証左でもあると解される。(六)の点は被告人の供述とBのそれとの間に一致しない部分のあることは前示のとおりである。(七)の点は客観的事実と被告人の供述との一致を言うもので、確かに心証を得るのに有力な事情である。しかしながら、被告人の場合は当時自動車修理工場に勤務しており、オイルは常に取扱い、その燃焼の具合も知っていたと考えられるので、必ずしもその根拠とはなし得ないと云うべきである。その他オイルという特殊のものを使用した旨の供述も心証を得た根拠の一つであると云う。確かにこの点は、二回目放火の特徴を示すものと云うことができるが、放火に使用したと云うオイル缶の発見はもとより、被告人らのうちの誰が缶に穴を開けたのか、誰が何処に棄てたのか重要な点が何ら解明されていないこと、しかも、右に述べたように、常時オイルを取扱い、それがエンジンを潤濶に作動させるための油で、したがって発火点が高く燃えにくいことを十分承知していたと思われる被告人が、放火に当りかかるオイルを持出すと考えること自体無理があると考えられるところ、当時中石自動車にはガソリンあるいは灯油等も仕事の性質上存在したと思われるのに、オイルを持出した理由については調書上何らふれるところがなく、これらの点の解明がない以上他の共犯者についてはともかく、被告人に対する右心証を得る根拠とすることには疑問があると思われる。以上のとおり、右の各事実は被告人が犯人であることの心証を得るに十分な根拠となり得るものではないと解される。

第九  原判決が、被告人らの自白が信用できると認定した根拠について順次検討するに、警察官が被告人らの供述するのと同種の資材を用い、その供述する方法によって着火、焼燬を試みた実験結果及び実験を担当した警察官らの原審証言によると、被告人の供述する方法によって二階が炎上する前に、Bがいう方法によって炎上した階下の火が二階に延焼して二階部分を焼燬炎上させる方の可能性が大きいことが認められる。そうすると、階下における放火のみによっても本件と同様の焼燬結果を生ずることも可能であり、原審が判示するように、火元は一階とその上に該当する二階の部分の二ヵ所とみられ、二人以上の者がかかわった可能性のある事件と限定することには疑問がある。そしてBの信用性に関するとみられる部分はB自身の所為の限度においてのみその信用性を肯認し得る有力な根拠とはなり得るが、被告人と関わりのある部分の根拠たり得ないと考えられることは第六の二で説明したとおりである。また被告人がL子らに放火した旨話したことがその根拠として十分でないことは前に説示したとおりである。その他放火の手口、場所、共犯者の数、犯行現場までの往復に使用した車等についても、前に説明したとおりで、そのすべてを信用性容認の根拠とすることは許されない。そうすると原判決が被告人らの自白の信用性を肯定する理由として判示した事実のうち、一回目は二人、二回目は三人でその間の員数の区別がはっきりしている点は、確かに被告人らが犯人であることに抜き難い確かな心証を惹かれるところであり、被告人らが後日自白をしたとしても、早期にしかも被告人は身柄不拘束の時点で自供したこと、自供した理由についての弁解がいずれも根拠が薄弱で十分な説得力を有するとは考えられないことを併せ考えると、かなり高度の蓋然性をもって自白の信用性を肯認し得るものとも考えられるが、最も重要な放火手段について被告人ら三名の供述が喰い違っていることなど、既に指摘した多くの供述の喰い違いあるいは虚構の事実の供述が含まれていること等を参酌すると、いまだこれらの理由に依拠しては被告人らの自白の信用性を証するには足りないと云わざるを得ず、原審の信用性の判断は結局支持することができない。

第一〇  以上検討したとおり、被告人らの自白には、被告人と本件犯行との結び付きについて、高度に確実で合理的な疑いを容れる余地がないほど信用性、真実性があるということはできない。確かに被告人が本件の犯人の一人ではないかとの疑問は払拭しきれないものがあるが、さればと云って、被告人らの自供以外に確たる証拠のない本件においては、「疑わしきは被告人の利益に」の原理に則り、被告人に無罪を言渡すのが相当である。

したがって、被告人らの自白の信用性を肯認し、これと挙示の証拠により、本件非現住建造物等放火の罪につき被告人を有罪とした原判決は、証拠の価値判断を誤り、ひいては事実を誤認した違法があり、原判決中被告人に関する部分は破棄を免れない。論旨は結局理由がある。

よって、刑訴法三九七条、三七九条、三八二条に則り原判決中被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがい自判する。

本件公訴事実は第二掲記のとおりであるところ、さきに説示したとおり犯罪の証明が十分でないから、同法四〇四条、三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 斎藤精一 桑原昭熙 裁判長裁判官徳松巖は転任のため署名押印できない。裁判官 斎藤精一)

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